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トム・G・ウォリアー(トリプティコン)
独占インタビュー

私はプロフェッショナルな人間だから
コンサートを可能な限り良いものにしたかったし
この作品を大きな間違い無しに
予定通りにきちんと演奏するということは
プレッシャーだったよ

                                   

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文:川嶋未来

昨年オランダのロードバーン・フェスティヴァルにて、フルオーケストラを従えてのステージを披露したトリプティコン。そこでプレイされたのは、レクイエム・トリロジー。3部作のうち第1部はケルティック・フロストによる永遠の名作『Into the Pandemonium』(87年)に「Rex Irae(Requiem)」として収録。第3部も、やはりケルティック・フロストの『Monotheist』(06年)に「Winter (Requiem, Chapter Three: Finale)」として収録されていた。そしてこの度、第2部が書き上げられ、トム・G・ウォリアーによる30年以上に渡るレクイエム・プロジェクトが完了。ロードバーンで初お披露目となった次第である。もちろん、この日の模様はきちんと記録され、『レクイエム(ライヴ・アット・ロードバーン2019)』としてリリースされている。ヘルハマー、ケルティック・フロスト、そしてトリプティコンのブレインであり、稀代の天才、エクストリーム・メタル界の最重要人物の1人であるトム・G・ウォリアーことトム・ゲイブリエル・フィッシャーにロング・インタビューを試みた。

 

 

— そちらの状況はいかがですか。(注:インタビューが行われたのは2020年5月8日)

 

トム:他と同じだよ。ロックダウンがちょうど終わってね、月曜日からだんだんお店が営業再開し始めた。コンサートはまったくないけれど。私のバンドもいつから活動再開できるかわからない。

 

— 今年中の再開は厳しいですかね。

 

トム:無理だろうね。残念だよ。というのも夏にアジアのツアーを企画していたんだ。少なくともオーストラリアでプレイをして、日本にも行けるかを確認しているところだったんだ。ところが、全部棚上げになってしまった。トライアンフ・オブ・デスとトリプティコンのツアーだったんだよ。発表はしていなかったけど、オーストラリアの日程は決まっていて、日本と交渉するところだったのさ。

 

— 本当ですか!それはショックです。ぜひ来年実現してもらえれば。

 

トム:おそらく来年への延期ということで話はしていると思うのだけど。私たちみんな日本に行きたいと思っているから。前回日本に行ってから、随分と経ってしまった。前回はナイルとトリプティコンのダブルヘッドライナーだった。もう10年くらい前かな。時が経つのは早いよ。

 

— 「レクイエム」がついに日の目を見たわけですが、大作を完成した気分はいかがですか。

 

トム:ホッとしているけれども、まだ自分の中で処理はしきれていない。2年もの間ずっと作業し続けて、しかも非常に複雑なプロジェクトだったからね。さまざまなレベルにおいて、私は最初から最後まで関わっていたし。仲間のミュージシャンたちと曲を書き、アレンジし、リハーサルをしてライヴをやり、録音したものを聴いて、ミックスをして、レコード会社と話をして、アートワークをやり、そして今プロモーションという最後のパートをやっているところさ。まだ消化はしきれていないとはいえ、モンスターのようなプロジェクトを作り上げ、来週ついにリリースになるというのは気持ちが良いことさ。

 

— フルオーケストラの共演でしたが、一番大変だったのはどんな点でしょう。

 

トム:一番大変だったところは、私が一番能力の低いミュージシャンであったということ。

 

— また(笑)。

 

トム:(笑)。オーケストラやバンドのメンバー見渡すと、私が一番才能がないと同時に、曲を書いたのは私だったからね。私はすべてを知っていて、どんな質問にも答えなくてはいけないという立場だった。そういう意味で、非常にプレッシャーを感じたよ。それに私はプロフェッショナルな人間だから、コンサートを可能な限り良いものにしたかったし。この作品を大きな間違い無しに、予定通りにきちんと演奏するということはプレッシャーだったよ。最初から最後まで、ずっとチャレンジが続いているような感じだったね。

 

— リハーサルはどのようにやったのですか。

 

トム:アレンジが出来上がると、クラシック・アレンジャーがMIDIファイルを作ってくれた。それを聴きながらスイスでリハーサルができるようにね。もちろん音はショボいけど、曲全体のダイナミクスを知ることはできるから。それに女性ヴォーカリストとリハーサルすることもできた。それからオランダで丸2日間、オーケストラとリハーサルをしたんだ。個人的には3−4日はやりたかったんだけどね。フルオーケストラとリハーサルをするにはロジスティック的にも金銭的にも容易ではないから。2日しかできなかったけど、みんなとてもプロフェッショナルで、それから当日のサウンドチェックの時も、クルーが機材をセットしている間にもう一度リハーサルをやった。

 

— 多くのクラシックの作曲家がレクイエムを書いていますが、特にお気に入りはありますか。

 

トム:私が好きなのは、ヨハン・アドルフ・ハッセのものだね。これは、例えばモーツァルトのような巨大なレクイエムではないけれど、この曲の非常に微妙な低音部が気に入っているんだ。クラシックは子供の頃から聴いていたからね。両親のレコードコレクションで。リストやドヴォルザーク、ハイドンなんかが大好きだった。私が書いたものは本来的な意味においてはレクイエムではないかもしれないけど、クラシックへの情熱があったから、自分でも書いてみたかったんだよ。

 

 

— そもそもの音楽との出会いはどのようなものだったのでしょう。

 

トム:私が6歳になる前に、両親が離婚をしたのだけど、2人はずいぶんと幅広いレコードコレクションをしていた。ジャズ、ロック、クラシック、その他色々持っていたよ。なので、小さい頃から色々な音楽は聴いていたんだ。離婚後、私は母親についていったのだけど、彼女がコレクションのほとんどを持っていったから、色々な作品を聴くことができた。私が7−8歳の頃、彼女は国際的な密輸に関わっていてね。時計やダイアモンドなんかを密輸していて、時に1週間くらい家に帰ってこないこともあった。まだ小さかったから、家でもの凄く寂しくて。寂しさを紛らわすために多くの音楽を聴いていたのさ。だから、まだ小さい頃から常に音楽に囲まれていたんだ。

 

— では、ヘヴィな音楽を聴き始めたきっかけは何だったのですか。

 

トム:小さい頃の悲惨な環境が、ヘヴィな音楽にハマった理由だと思う。母親の行動や精神状態のせいで、環境はめちゃくちゃだった。生活の状態は本当に酷いものだったんだよ。こういう実生活で経験した闇のせいで、音楽にも闇を探すようになったのだと思う。振り返ってみると、こういう分析になる。70年代の初め頃に初めてハードロックを聴いて好きになり、75年か76年くらいにブラック・サバスに出会った。12歳か13歳の頃さ。ブラック・サバスこそ、闇の音楽だと思ったんだ。聴いていてとても心地が良くて、それで完全にハマったよ。

 

— なるほど。ブラック・サバスがきっかけだったんですね。

 

トム:最初に所有したヘヴィな音楽という意味では、スージー・クアトロのファースト・アルバムだけどね。彼女の作品はコマーシャルになっていくけど、ファーストはとてもヘヴィだったから。73年にあれを聴いたのがきっかけ。だけどその後、ブラック・サバスとブルー・オイスター・カルト、ピンク・フロイドにほとんど同時に出会って、まったく違う世界が開けたのさ。

 

— なるほど。てっきりヘヴィメタルからスタートして、その後他の音楽へと幅を広げていったのかと思っていたのですが、逆だったのですね。

 

トム:その通りさ。両親のコレクションがあったからね。

 

— ヘルハマーのシンプルだけどヘヴィで不気味なリフというのは、どのようなバンドからの影響だったのでしょう。

 

トム:当時最もエクストリームだったバンドに惹かれていたからね。『Bomber』、『Overkill』、『Ace of Spade』の頃のモーターヘッド、初期のディスチャージも大好きだったし、ブラック・サバスやエンジェルウィッチの作品はすべて好きだった。自分たちのバンドをやろうと思ったきっかけは、こういうバンドだったね。

 

— ヘルハマーのリフには時々アラゴンを感じることがあるのですが、このバンドからの影響はあったのでしょうか。

 

トム:もちろん。アラゴンは本当に素晴らしいバンドだった。81年の7月にヴェノムのファースト・シングルを買ったときに、アラゴンの『Black Ice』のシングルも買ったんだ。当時私の耳にはアラゴンの音楽はパンクっぽく聞こえてね、とても気に入っていたよ。ヘルハマーの音楽にももちろん、わりとパンクっぽいエッジがあったからね。

 

— あなたはそういう日付をとても細かく記憶していますよね。あなたの書いた本を2冊とも読みましたが、様々な過去の日付が詳細に記されていて、とても驚きました。私はもう子供の頃のことなんてほとんど忘れてしまいました。

 

トム:事はそうシンプルじゃないよ。2冊目の本(注:『Only Death Is Real』)なんて、リサーチに5年もかけたんだ。私は人生の間ずっと色々とノートに書き留めている方なんだけど、友達や仲間のミュージシャン、プロデューサーなどにも色々と話を聞いたんだ。実際に文章を書き始める前に、4年かけてそれらを組み立ててね。もちろん私の記憶も完璧ではないから、抜けているところを埋めるのは大変だったよ。

 

— 当時影響を受けたヴォーカルはいましたか。

 

トム:私がヴォーカリストになったのは、他にヴォーカルをやる人間を見つけられなかったからさ。バンドをやるには自分で歌うしかなかったんだよ。意に反してね。ヴォーカリストとして才能があるとも思わなかったし。だから、こういう人から影響を受けたなんて言うこともバカげていると思うんだ。当時、自分として歌えるのは、レミーやヴェノムのクロノスのようなレンジしかないと思っていた。あるいはディスチャージみたいなスタイルとかね。それが限界だった。何年も後になって、真面目にヴォーカルに取り組んで、少し幅を広げたけれど。

 

— 本の中でも「自分のヴォーカルが気に入らなかった」という記載がありましたが、私はずっとあなたの声は最高だと思っていますよ。

 

トム:当時はパーフェクトな才能を持ったきちんとしたヴォーカリストが欲しかったんだよ。当時はエクストリーム・メタルのミュージシャンはまわりにほとんどいなかったしね。あの頃のスイスにはメタル・シーンと言えるものもなかったから、シンガーを見つけることは不可能だったんだ。それで自分で歌うしかなかった。バンドをやりたかったら自分でやるしなかったんだよ。本当は私はベースをやりたかったんだけど、ギタリストを見つけられなかったから、やはりバンドをやるには自分でギターの練習をするしかなかった。今もまだギターの練習は足りていないけど。

 

— 本当に謙虚ですね。

 

トム:いや、現実的なだけだよ(笑)。

 

— 当時のスイスで、他にエクストリーム・メタルをプレイしているバンドはいなかったのですか。

 

トム:まったくいなかった。当時スイスで一番ビッグだったのはクロークスで、ローカルなバンドはみんな彼らのマネをしていた。クロークスは他の国でも人気があったから、アイドルのような存在だったんだ。他のバンドのリハーサルを見に行くと、みんなクロークスの真似をしている感じだったよ。少なくとも81−83年頃の私の住んでいた地域には、エクストリームなバンドは1つもいなかったね。

 

— ヘルハマーのスタイルを、「デス・メタル」、「オカルト・メタル」と呼んでいたそうですね。

 

トム:そうだね。

 

— となると、「デス・メタル」という呼称を考え出したのはあなたということになるのでしょうか。

 

トム:いや、それは違う。ファンジンで見たんだ。確かアメリカのファンジンだったと思う。あの頃テープトレードをやっていてね。世界中にペンパルがいて、デモテープやファンジンをトレードしていたんだ。その中の一冊で「デス・メタル」という言葉を見て、自分たちがプレイしているのもこれだと感じてね。ジャーナリストが私たちの音楽を「デス・メタル」と表現していたのだったかな。いずれにせよ、私たちが考えたのではない。自分たちがプレイしているのはデス・メタルだという風には感じていたけれど。「デス・メタル」という言葉が今使われるような意味になったのは、もっと後になってからのこと。ヘルハマーや初期のケルティック・フロストがプレイしているスタイルを完璧に表現している言葉だと思っていたから、今の「デス・メタル」という言葉の使われ方にはちょっと違和感がある。私にとって「デス・メタル」というのは音楽スタイルだけではなく、歌詞の中身も表すものさ。その後「デス・メタル」という言葉がまったく違った意味になってしまったのは、残念なことだね。

 

— 『デス・メタル』というファンジンもやっていたんですよね。そのファンジンは手元に残っているのですか。

 

トム:最後の号の何ページかだけ持っている。全部じゃないんだ。だけど、『デス・メタル』を持っている人がいるという話は聞いていてね。ぜひ会ってスキャンさせてもらいたいと思っているんだ。もう40年も目にしていないから。ぜひ私のアーカイヴに加えたい。

 

— 当時、ヴェノムとメタリカの『Seven Dates of Hell』ツアーを見に行ったんですよね。チューリッヒにはデストラクションのシュミーアも見に来ていたそうです。彼はヴェノム目当てで見に行ったけれど、ヴェノムにはガッカリし、メタリカのあまりの凄さに圧倒されたということを言っていたのですが、あなたはどのように感じましたか。

 

トム:残念ながら、私たちの感想も同じだった。みんなヴェノム目当てであのコンサートに行ったんだ。最初の2枚のアルバムが大好きだったから。だけど84年の2月の時点では、ヴェノムは随分と違ったバンドになってしまっていて、3枚目のアルバム(『At War with Satan』)は最初の2枚ほど強力には思えなかった。それでもコンサートには行ったんだ。ハードコア・メタルを体験したかったから。ヴェノムはビッグなショウをやろうとしたのだろうけど、まあ私はショウではなくて音楽が目当てではあったのだけど、結局メタリカの方がエネルギーとヘヴィネス、過激さにあふれていてね。みんなメタリカに圧倒されてしまった。ヴェノムも頑張ってはいたのだけど。メタリカは最初に機材トラブルがあったにも関わらず、凄まじく強力だった。ヴェノムには勝ち目はなかったよ。

 

— そこでクロノスにヘルハマーのテープを渡したんですよね。

 

トム:いや、それはそのライヴより前だよ。ヴェノムがツアーのプロモーションでスイスにやってきて、プレス・カンファレンスをやったんだ。そこに私たちも行ってね、ヴェノムにデモテープを渡したのさ。あのデモには”Venom are killing music. Hellhammer are killing Venom.”って書いてあったのだから、随分と大胆なことをしたものだよ。

 

— 『Morbid Tales』収録の「Return to the Eve」では女性ヴォーカルがフィーチャされていました。これはどのようなところからのインスピレーションだったのでしょう。

 

トム:私たちにとっては、それほど大きなことではなかった。マーティン・エリック・エインも私も、ヘヴィメタル以外の様々な音楽からの影響を受けていたからね。私たちにとってはそれほど突飛なことでもなかったんだ。ロキシー・ミュージックなども大好きだったし、EL&Pのようなプログレも聞いていたし、マーティンはニューウェイヴが大好きだった。バンドではヘヴィな音楽をプレイしていたけれど、私たちの音楽的地平は広かったんだよ。女性ヴォーカルというのもまったく普通のものだったし、曲に違った感情の影をつけたかったというのもあって、女性に歌ってもらったのさ。その出来がとても気に入ったので、その後のアルバムでも女性ヴォーカルを使い続けたんだ。

 

— ヴェノムが「Welcome to Hell」で女性ヴォーカルを入れていたので、当時はてっきりその影響なのかと思っていたのですが、そうではなかったのですね。

 

トム:それは違う。もちろんバンドを始めた頃はヴェノムから大きな影響を受けたし、経験がなかった頃はヴェノムのクローンのようなこともやっていた。まあ当時は誰でもそうだったよね。だけど、女性ヴォーカルに関しては完全にニューウェイヴの影響だよ。スージー・アンド・ザ・バンシーズなんかも好きだったし。女性ヴォーカルはヴェノムからの影響ではない。

 

— 『Into the Pandemonium』がニューウェイヴの影響下にあるというのはわかりましたが、『Morbid Tales』の時点ですでにニューウェイヴ色があったというのは驚きです。

 

トム:例えば「Dance Macabre」なんかを聴けばわかるけど、あの曲はまったくメタルではないよね。もちろん84年の時点では、私たちはミュージシャンとしての技量は限られたものだったから、さらなる実験をする自信を得るにはさらに数年が必要だったけれど。

 

— あのアルバムではヴァイオリンも使っていますよね。

 

トム:もちろん。使わない理由がないからね(笑)。ヴァイオリンというのは非常に美しい楽器だし、さっきも言ったとおり音楽にちょっと違った影をつけたかったんだ。私たち自身の楽器ではつけられない影をね。それでヴァイオリニストにスタジオに来てもらって、私たちの音楽に合わせてインプロヴィゼーションをやってもらったんだ。とてもうまくいったから、後のアルバムでもっと使ってみようと思ったのさ。私に言わせれば、「何で試してみないんだ」という感じさ。当時のメタルには制限があって、「あれをやってはいけない、これをやってはいけない」みたいな不文律があった。私たちは「もちろんやって良いに決まってるだろ」と思っていたけれどね。自分をアーティストだと言うのなら、自分に制限を課す必要なんてないのだから。

 

— 当時のスラッシュ・メタルはスピード競争のような感がありました。しかし、ケルティック・フロストは明らかにその競争には加わっていませんでしたよね。むしろスローな曲が売りだった感もありますが、遅い曲を演奏しようという意図はあったのですか。

 

トム:遅い曲をプレイしようという意図?私たちはあらゆるスタイルの音楽が好きだっただけさ。速い曲も遅い曲もね。だから、自分たちの曲を作り始めたときに、どちらもやってみたんだ。私たちにとってはどちらでも良かった。素晴らしい速い曲。素晴らしい遅い曲。速い曲しかやらない、遅い曲しかやらない、スピード・メタル、ドゥーム・メタルと決めてしまうのは逆効果だと思う。私はそのどちらも好きだし、ミュージシャンになるのなら、これらすべてを試してみたい。その姿勢は今でも変わらないよ。

 

— ヴェノムの7”EPを33回転で再生して聴いていたというエピソードを読んだものですから、てっきり遅さの追求もしているのかと思っていました。

 

トム:あれは単にもっとヘヴィにしようと思っただけのことさ(笑)。

 

— 『To Mega Therion』ではティンパニやフレンチホルンまで導入しました。もちろんこちらも「導入しない理由がない」ということかもしれませんが、これらはロックの世界においてもあまり「普通」の楽器ではないですよね。

 

トム:ティンパニは素晴らしい楽器だよ。音楽にアクセントを与えるという点においてね。だけど、ティンパニはどうしても使いすぎてしまう。ケルティック・フロストでアルバムを作っていたときに、ギタリストがスタジオにあったティンパニを叩きまくってね。私がほとんど消したんだ。ティンパニというのはなるべく少なく使うべきで、ここぞという時に使えばアクセントになり、曲にエピックなエッジ、荘厳な雰囲気を加えられる。普通のロックの楽器では出せないような雰囲気をね。これらの楽器も、クラシックやオペラを視野に入れれば、さっき君が言ったように「導入しない理由がない」ということになるよ。

 

— 当時スラッシュ・メタルをプレイしているという意識はありましたか。スラッシュ・シーンの一部だという認識はあったのでしょうか。

 

トム:常にスラッシュ・メタル・ムーヴメントの一部であるという感覚はあった。人々がスラッシュ・メタルの歴史を語るときに、ケルティック・フロストもスラッシュ・メタルをプレイしていたということを忘れがちであることには、フラストレーションを感じるよ。私たちは様々なスタイルを取り入れて実験的なことをやり、他のバンドよりも大胆だったからね。ピュアなスラッシュ・メタル・バンドではないと思われるのだろう。

 

— 当時お気に入りのスラッシュ・メタル・バンドはいましたか。

 

トム:もちろん、たくさんいたよ。当時のバンドで好きなのはエキサイター。ファースト・アルバム(『Heavy Metal Maniac』)は今でも素晴らしいと思う。それからアバトワールも画期的なバンドだったね。

 

— ハイトーンがお好きなのですね。

 

トム:音楽にフィットしているのなら、どんなスタイルのヴォーカルでも好きだよ。やはり、1つのスタイルだけが好きということはない。ロニー・ジェイムズ・ディオもレミーやディスチャージと同じくらい好きだし。音楽が本物であれば、すべてがフィットしていれば、スタイルはどうでもいいんだ。ハイトーンのヴォーカルもフィットしていればもちろん好きだ。例えばクリムゾン・グローリーの最初の2枚は画期的だし、あのヴォーカルは常軌を逸しているよ。

 

— 『Into the Pandemonium』は非常に実験的なアルバムでしたが、カバー曲である「Mexican Radio」を冒頭に持って来るというのはとても大胆な作りであったと思います。これは何故だったのでしょう。

 

トム:あのアルバムは物凄く実験的だったからね。ニューウェイヴのカバーを冒頭に持ってくるというのもとても実験的だろう?ずっと何かニューウェイヴのカバーをやりたいと思っていて、それで「Mexican Radio」をやろうと決めたんだ。もともとはアルバムのどこかに入れるか、もしかしたらEPのB面くらいに思っていたのだけど、レコーディングしてみたらとてもその出来が気に入ってね。あのアルバムは全体的に非常に実験的で、仮に「Mexican Radio」が無かったとしても、ああいうアルバムをリリースすること自体がリスクだったからね。「Mexican Radio」を冒頭に加えても、大きな違いはなかったのさ。すべての月並みなことにノーを突きつけて、誰の言うことも聞かず、やりたいことをやるというスタンスを取っていたからね。「Mexican Radio」も、もちろんその一環さ。

 

— 『Into the Pandemonium』ではヴォーカル・スタイルに変化が見られました。例えば「Mesmerized」のような歌唱法にはどのようにしてたどりついたのでしょう。

 

トム:歌い方を変えたというわけではないんだ。フロントマンとして自信もついて、歌い方を拡張したというのかな。いつも同じ声で歌いたくなかったし、マーティン・エリック・エインも背中を押してくれてね。彼は素晴らしいヴォーカル・プロデューサーだったよ。ああいう歌い方は、もちろん当時のニューウェイヴからの影響さ。

 

— 非常にクリスチャン・デスっぽいと思ったのですが、影響はありましたか。

 

トム:もちろん。クリスチャン・デスは私たちが当時崇拝していたバンドの1つさ。キャリアの様々なところで、リード・ヴォーカルにはバウハウスやザ・シスターズ・オブ・マーシー、クリスチャン・デスからの影響を感じられると思うよ。

 

— ドラムマシンも使用しましたよね。これはザ・シスターズ・オブ・マーシーあたりからの影響だったのでしょうか。

 

トム:いや、ドラムマシンを使ったのは、当時のエレクトロニック・ミュージックからの影響だった。80年代初期のヒップホップではサンプリングが盛んに行われていてね。エレクトロニック・ミュージックでも色々な実験が行われて、非常に興味深かったんだ。当時家で曲作りのためにドラムマシンを使っていたんだ。曲が良いものかどうかを判断するために。それで、これも自分たちの音楽の実験に取り込んでみたんだよ。でも、あくまで1−2曲試しただけで、ドラマーをマシンに変えてしまうつもりはなかった。時々実験として使ってみるだけでね。

 

ー エレクトロニック・ミュージックというのは具体的にどのようなアーティストでしょう。

 

トム:私個人に限って言えば、カーティス・ブロウやグランドマスター・フラッシュといった初期ヒップホップのDJ、ミュージシャンたちからの影響さ。初期のヒップホップを当時よく聴いていたんだ。残念ながらその後ヒップホップはマジックを失ってしまったけれどね。80年代初めころは基本的にファンクの現代版という感じだったのに。マーティンはもっと後のヒップホップが好きだったけれど。マーティンは私にドラムマシンを使っているニューウェイヴのバンドを色々と教えてくれた。君が挙げたように、一番有名なところはザ・シスターズ・オブ・マーシーだろう。85年の初め頃、ザ・シスターズ・オブ・マーシーのライヴを観に行ってね。ドラムマシンを使ったステージは本当に素晴らしかった。そういうコンセプトがうまく行くということがわかった。

 

— 『Monotheist』は、もちろんケルティック・フロストらしいアルバムであると同時に、何か新しいサウンドでもありました。ドゥーム・メタルという言い方もされていますが、実際にドゥーム・メタルからの影響はあったのですか。

 

トム:いや、ただ自分たちの中にある音楽を書いただけだよ。私たちは座って「よし、ドゥーム・メタルを書こう」というようなことはしない。ただ曲を書いて、ベストだと思った曲をアルバムに入れるだけ。『Monotheist』にも速い曲は入っているし、あれをドゥーム・メタル・アルバムと特徴づけることはできないよ。ゴシックもあればスピード・メタルもある。バビロニアン・チャントもあるしね。『Monotheist』は単にあの時の私たちを反映しているだけさ。ケルティック・フロストのスタイルはドゥームともスラッシュとも言えず、さっき君が言ったような、「何か新しいもの」なのさ。同じでありながら変化している。ケルティック・フロストのアルバムはすべてそういうものなんだよ。同じことは絶対に繰り返さない。同じアルバムは2度と作らない。以前やったことを完全に捨て去り、まったく新しいものを作り出し、キャリアを台無しにする勇気を持つというのがケルティック・フロストのスタイルなんだ。

 

— お気に入りのケルティック・フロストのアルバムを選ぶとしたらどれでしょう。

 

トム:それは不可能だな。すべてのクラシックなケルティック・フロストのアルバムは、私にとって重要だし、それらの曲は私の個人的な歴史にとって大きな意味を持っている。『Morbid Tales』、『To Mega Therion』、『Into the Pandemonium』、それから『Monotheist』の4枚は私にとってエッセンシェルなアルバムさ。これらはすべて重要な作品で、この中から1枚を選ぶことはできない。

 

— あなたの作品を理解するためのアルバムを5枚教えてください。

 

トム:私の作品を理解するための5枚か。まずはもちろんブラック・サバスの『Vol.4』。それからクインシー・ジョーンズの『Gula Matari』。これはグルーヴとフィーリングという点において素晴らしいアルバムだ。ケルティック・フロストとのつながりは見えないかもしれないけど、このアルバムから学んだことはとても多い。それからザ・シスターズ・オブ・マーシーの『First and Last and Always』。ヴェノムのファースト・アルバム、『Welcome to Hell』も挙げないわけにはいかない。他にもいっぱいあるよ。ロキシー・ミュージックの最初の5枚は、いずれもこのリストに入れられるべきさ。ロキシー・ミュージックの実験的なスタイルは、ケルティック・フロストに凄まじい影響を与えたし、ロキシー・ミュージックがいなければ、ケルティック・フロストの音楽はまったく違ったものになっていただろう。後期はコマーシャルになってしまったけれど、少なくとも初期の彼らの作品は、私にとってとても重要なんだ。

 

 

— トリプティコン、あるいはトライアンフ・オブ・デスの今後の予定を教えてください。ニュー・アルバムの予定などはありますか。

 

トム:トリプティコンもやっと新しいアルバムを作る予定だよ。前作から随分と時間が経ってしまったからね。トリプティコンのニュー・アルバムを作っているときに、ロードバーンのレクイエムのオファーが来たんだ。そのレクエイムも完成して来週リリースになるから、またトリプティコンのスタジオ・アルバムにも取り掛かっているよ。今年中には仕上げて、来年の頭にはリリースしたいと思っている。うまく行けば、今年中にシングルかディジタル配信はできるかもしれない。トリプティコンが健在であることを示すためにね。トライアンフ・オブ・デスはライヴ・バンドで、可能な限りたくさんのライヴをやることが目的なのだけど、去年何本かのライヴを録音したので、それらを今年リリースしようと思っている。録音を全部聴いて、ベストなテイクを選んで、今年中には何らかの形でリリースしたいね。

 

— 『Cold Lake』についての質問をしても良いでしょうか。

 

トム:どうしてもと言うのならね。

 

— あの作品をなぜそんなに嫌うのでしょう。

 

トム:あれはゴミだからだよ。簡単なことさ。クズだから嫌いなんだ。あらゆる点において私の考える音楽のクオリティというものを満たしていないし、あれはクズだし、あんなことをやろうというアイデア自体が間違いだったんだ。これは私の意見ではなく、れっきとした事実なのさ。

 

— しかし当時はそれほど嫌っていたわけではないですよね。例えば次のアルバム、『Vanity / Nemesis』のツアーの際も、『Cold Lake』の曲をアンコールで演奏していましたが。

 

トム:ツアーで演奏する曲は、バンドみんなで決めるのさ。それはケルティック・フロストでもトリプティコンでも同じ。当時のバンドのメンバーたちは、新しいアルバムからの曲をプレイするのが大事だと考えたんだ。私はそれは良い考えだとは思わなかったし、ツアー自体も酷いものだった。方向性を見失っていて、当時のステージ衣装もケルティック・フロストと何ら関係のないものだった。

 

— 当時カナダのスラッシュ・メタル・バンド、アグレッションのデニス・バートがギタリストとして加入するため、スイスに行ったという話を聞いたのですが。

 

トム:いや、それはないよ。後にイギリスのサバトに加入することになるギタリストがオーディションを受けたことはあった。でも酷いオーディションでね。お断りしたんだ。その後、彼はサバトに加入して、インタビューでケルティック・フロストの悪口を言っているのを見かけた。彼はニューヨークからオーディションを受けに来たのだけど、とても酷い有様でね。断ったのは私たちのせいではないよ。彼の名前は忘れてしまったけど。アグレッションのデニスとは、確かWorld War III Festivalで出会ったはず。彼とは仲良くなったけれど、ケルティック・フロストのオーディションは受けていない。ウォッチタワーのビリー・ホワイトが入るという話もあったのだけど、結局ロン・マークスが加入したんだ。彼もアメリカ人だった。

 

— デニスは86年にスイスに2週間行ったと言っていました。そしたら、ケルティック・フロストはモトリー・クルーのような音楽をプレイしていたと。

 

トム:アグレッションのデニスが?クソ野郎だな。『Into the Pandemonium』より前にモトリー・クルーみたいなことをやろうとなんて絶対にしていない。奴が言っていることは間違いなく『Cold Lake』の時期のことだし、その時期に海外からのギタリストをオーディションしたことはない。それに彼が2週間スイスに来て私たちとジャムをしたということも絶対にない。何で彼はそんなことを言っているんだろうね?間違いなく真実ではない。アメリカからギタリストはニューヨークのリッチー・デズモンドとオハイオのロン・マークス、テキサスのビリー・ホワイトだけ。ロンは『Into the Pandemonium』の後に加入して、『Vanity / Nemesis』でもギターを弾いたんだ。そのアグレッションの話は正直ガッカリだね。

 

— ハイラックスのロゴをデザインしたのはどのような経緯からだったのですか。

 

トム:あれはテープトレードの一環だよ。ある日ハイラックスのデモが送られてきてね。とても気に入ったんだ。当時ケイトンとはペンパルだった。音楽はとても素晴らしかったけれど、ロゴが合っていない気がしたので、確か私が自発的に机に座ってロゴを作って送ったんだったと思う。そしたら、それを今に至るまで使ってくれていて、とても驚いたよ。ハイラックスを聴きながら勝手にロゴを作って送ったという感じだった。それを彼らがずっと使ってくれているんだよ。

 

ー リード・セイント・マークとは今もコンタクトしていますか。彼は現在何をしているのでしょう。

 

トム:今も時々やりとりしているよ。個人的には今もとても仲の良い友人さ。彼がどんな音楽活動をしているかは知らないのだけど。アメリカでケルティック・フロストのカバー・バンドにゲスト出演をしたというのは見たな。だけど、他にどんな音楽活動をしているのかは知らない。音楽の話は全然しないんだ。彼と話すのは、もっぱら個人的なことばかりで。

 

— 彼はアメリカにいるのですか。

 

トム:そう、東海岸にいるよ。

 

— 『Necronomicon』や『Nemesis of Power』など、ケルティック・フロストには構想やデモだけが存在したアルバムが存在します。これらのアルバムを仕上げるという計画はないのでしょうか。

 

トム:実は『Necronomicon』はもう何年も手がけているんだ。『Necronomicon』用のマテリアルは私のPCに入っているよ。どの曲を選ぶかによって、次のトリプティコンのアルバムは『Necronomicon』になるかもしれない。『Necronomicon』は完成させたいと、ずっと思っていたから。だけど、他のケルティック・フロストのアルバムは完成させようとは思わない。それらのアルバムが完成できなかったのには、それなりの理由があるから。私たちにはたくさんのアイデアがあったけれど、それが常に良いものになるとは限らない。『Cold Lake』が良い例さ。アルバムが完成しない場合、何らかの理由があるんだよ。しかし、『Necronomicon』はマーティンと私が完成させたいと思っていたコンセプトだからね。まだケルティック・フロストが存在していた07年頃、『Necronomicon』がどんなサウンドになるべきか、さんざん話し合って、音楽的アイデアを集めたりもした。いつの日かこのアルバムは完成させたいと思っていて、意外と早く実現できるかもしれない。すでに多くのマテリアルが揃っているからね。

 

ー ケルティック・フロスト名義ではなくトリプティコンとしてリリースするのですか。

 

トム:ケルティック・フロストはもう存在しないからね。トリプティコン名義さ。ケルティック・フロストは存在しないし、将来復活することもない。マーティンが死んでしまったから。00年代の初めのころ、マーティンと私は2人が揃わなければケルティック・フロストはやらないという契約を交わしたんだ。あの契約は交わして良かったと思っている。

 

— では最後に日本のファンへのメッセージをお願いします。

 

トム:本当に日本が恋しいよ。スイスという小さな国の農村のバンドが日本に行くことができたなんて、とても光栄なことさ。07年にケルティック・フロストとして日本に行ったのも、本当に素晴らしい経験だった。ずっとまた日本に行きたいと思っているよ。日本というのは他のどんな国とも違う。音楽以外でも、音楽シーンもね。日本でプレイできたことを最高に光栄に思う。本当に本当に、また日本のオーディエンスのためにプレイしたい。日本のオーディエンス、レコード会社からのサポートにも感謝しているよ。

 

 


 

非常にマニアックな内容も含んでいるため、何のことだかさっぱりわからない部分も少なくないと思うので、何点か補足をしておこう。

 

「デス・メタル」というジャンル名の起源については、いくつかの説がある。中でも有力なのが2説。アメリカのポゼストが84年に発表したデモ、その名もズバリ『Death Metal』と、同じく84年にリリースされたオムニバス・アルバム、『Death Metal』だ。後者のオムニバスにはヘルハマーも収録されており、タイトルは当時トム・G・ウォリアーがやっていたファンジン、「Death Meal」にちなんでいるとされてきた。(トムの本によれば、当初このオムニバスは『Black Mass』というタイトルになる予定だったが、バンドの雰囲気にそぐわないと思ったトムが『Death Metal』というタイトルを提案したらしい。)だが、今回のインタビューによって、「デス・メタル」という呼称は、トムのファンジン以前から存在していたということが判明した。(「デス・メタル」という単語が認知されていたかどうかは、当然別問題だが。)「デス・メタル」はただファンジンの名前であったわけではなく、トムたちは当時ヘルハマーのプレイしていたスタイル自体を「デス・メタル」だと考えていたのであり、なおかつその「デス・メタル」という呼称は彼らが考案したものではなく、アメリカのファンジンで目にしたものであったということ。オムニバスの『Death Metal』も、トムのファンジンも、「デス・メタル」という言葉を使用した最初期の一例ではあるが、起源ではないということになる。

 

ヴェノムのセカンド・アルバム『Black Metal』には、”Home taping is killing music. So are Venom”(テープへのダビングは音楽を殺す。ヴェノムも音楽を殺す。)という記載があった。”Home taping is killing music”というのは、カセットテープが普及することでレコードの売り上げが落ちることを危惧したイギリスの音楽業界の団体が掲げたスローガン。ヴェノムはこれをパロディにしたのだ。ヘルハマーは、さらに” Hellhammer are killing Venom”という一文を加えることで、さらなるパロディ化を図ったということである。ちなみにテープを受け取ったクロノスは、“Hellhammer are killing Venom”という一文を大声で読み上げ、ラジカセを用意させ、出席者全員の前でヘルハマーのデモを流してみせたらしい。

 

ケルティック・フロストが88年にリリースした『Cold Lake』というアルバムは、ヘヴィメタル史上に残る問題作である。87年に『Into the Pandemonium』という史上初の「何でもアリ・エクストリーム・メタル・アルバム」をリリースしたケルティック・フロストであったが、その翌年突然、LAメタル化。ヘアスプレーで髪の毛を立て、L.A.ガンズのTシャツを着用し、世界中のスラッシュ・ファンの度肝を抜いた(もちろん悪い意味で)。私も当時このアルバムを手にしたとき、果たしてこれは本気なのか、それともジョークあるいは皮肉なのかと真剣に悩んだものだ。この作品は、インタビュー中のトムの発言からも分かる通り、完全なる黒歴史となっている。何年か前にケルティック・フロストのアルバムの一斉再発が行われたが、当然のように『Cold Lake』はスルー。『Cold Lake』の話をすると怒るという噂も聞いていたので、質問をする前に断りを入れた次第。もし「ノー」と言われれば、あそこで引き下がるつもりであった。そのくらい、このアルバムはアンタッチャブルなのである。『Cold Lake』に参加し、バンドをLAメタルへ導いた「戦犯」とされるギタリスト、オリヴァー・アンバーグのインタビューも併せて読んでみてほしい。▶︎オリヴァー・アンバーグ インタビューはこちら

 

そんなケルティック・フロストのLAメタル化について、カナダのスラッシュ・メタル・バンド、アグレッションのメンバーによる面白いインタビューを見つけたことがあった。ギタリストのデニス・バートが、86年にケルティック・フロストに加入するためにスイスに行ったが、モトリー・クルーみたいな音楽をプレイしていたので、加入せずに帰ってきたというものだ。86年と言えば、『Into the Pandemonium』よりも前のこと。もし、この証言が本当だったとすれば、ケルティック・フロストは随分と早い段階でLAメタル化を画策していたことになる。そこで私はデニス本人にコンタクトをとり、この発言の真偽を確認したところ、すべて事実だという回答を得たのだ。だが、今回トムの証言を聞いた結果、デニスの発言の信ぴょう性は著しく下がったと言わざるをえない。トムはデニスがスイスに来たこともないと断言している上に、オリヴァーの証言も加えると、バンドが86年の時点でLAメタル化を図っていたということはありえないと結論づけるべきだろう。

 

とまあ、実に長い記事になってしまったが、とにかく『レクイエム(ライヴ・アット・ロードバーン2019)』は圧巻の一言。エクストリーム・メタルに何でもアリを持ち込んだ張本人による、巨大プロジェクトは、さすがの仕上がり。古くからのケルティック・フロスト・ファンならば、1曲目の「Rex Irae」から、あまりのカッコ良さにいきなり失神してしまうことだろう。

 

 

文 川嶋未来

 


 

 

2020年7月3日発売

トリプティコン・ウィズ・ザ・メトロポール・オルケスト

『レクイエム(ライヴ・アット・ロードバーン 2019)』

CD+DVD

CD

【CD収録曲】

  1. レックス・イレ (レクイエム・チャプター1:オーヴァーチュア)
    *セルティック・フロスト『イントゥ・ザ・パンデモニウム』(1987)収録曲
  2. グレイヴ・エターナル (レクイエム・チャプター2:トランジション)
    *新曲
  3. ウィンター (レクイエム・チャプター3:フィナーレ)
    *セルティック・フロスト『モノセイスト』(2006)収録曲

【メンバー】
トム・G・ウォリアー (ヴォーカル/ギター)
V・サンチューラ (ギター)
ヴァンヤ・スレー (ベース)
ハネス・グロスマン (ドラムス)