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ウルフ・ペッテルソン
(Mezzrow)
独占インタビュー

曲作りのプロセスは
昔みたいに本当に楽しかった
ミュージシャンとしても成熟したしね

                                   

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文:川嶋未来

1990年にアルバム一枚をリリースしただけで解散してしまったスウェーデンのカルト・スラッシュ・メタル・バンド、

メズロウが復活!33年ぶりのニュー・アルバムをリリースするということで、ヴォーカルのウルフに話を聞いてみた。

 

 

ー バンドは1985年にネクロマンシーという名前で始まったとされていますが。

 

ウルフ:うーん、確かに俺と他の2人のメンバーはネクロマンシーにもいたよ。そして87年にメズロウを始めたんだ。

 

ー ネクロマンシーとメズロウはまったく別のバンドということでしょうか。

 

ウルフ:そう、別のバンドさ。

 

ー メズロウではどのようなスラッシュ・メタルをやろうとしていたのでしょう。

 

ウルフ:バンドの初期から、ベイエリア・シーン全般からインスパイアされていた。アメリカのバンドたち、主にベイエリアさ。テスタメント、エクソダス、フォービドゥン、ヴァイオレンスなんかを良く聴いていたな。

 

ー 当時のスウェーデンのスラッシュ・シーンはどんな感じでしたか。現在スウェーデンはエクストリーム・メタル天国という感じですが、当時スラッシュのバンドは少ない印象でした。

 

ウルフ:確かに小さなシーンだった。コンサートも自分たちでアレンジしなくてはいけなかったよ。特に初期はね。バンド同士でコンサートを企画して、お互いを呼びあったり。だから、ほとんどのスウェーデンのスラッシュ・バンドは大成できなかった。だけどシーン自体はあったし、楽しかった。俺たちにとって不運だったのは、デス・メタルの波がやってきて、すっかりスラッシュ・シーンを飲み込んでしまったことさ。

 

ー 当時もっと注目を浴びるべきだったと思うスウェーデンのスラッシュ・バンドを教えてください。

 

ウルフ:例えばHexenhausとはよく一緒にライヴをやったよ。彼らとは仲が良かったんだ。それからHedemoraという街のHatred。彼らはアルバムをリリースすることはなかったけれど、よく一緒にライヴをやっていて、良いバンドだった。Mercilessとも2回プレイしたな。彼らはデス・メタルとスラッシュの境界線のバンドで、古いジャーマン・スラッシュのようなサウンドを出していた。初期のクリエイターやソドムみたいなね。クロスオーヴァーのKazjurolとも何度かプレイして、確かツアーも一緒にやった。ÖrebroにはFallen Angelというバンドがいた。俺たち同様ベイエリアからインスパイアされた、かなり良いバンドだったな。

 

ー Mezzrowというバンド名は、どのような意味なのでしょう。

 

ウルフ:これについては2つのストーリーがある。俺が記憶しているのは、「Mess」と「Row」という2単語を組み合わせて、SをZに変えた。その方が見栄えが良かったから。一方で、創設メンバーでもあるギタリストの一人は、雑誌で”Mezzrow”という名のジャズ・ミュージシャンの広告を見たと記憶しているんだ。それで、「メズロウか、良い響きだな」と思ったと。当時ドイツにDeathrowというバンドがいて、とても良いバンド名だと思ったのだけど、すでに使われているから、それなら「メズロウか、これもイカしてるな」って思ったんだよ。もちろん、例えばスレイヤーの曲からバンド名を取ることだってできた。ケミカル・フォーフェアーとかね。だけど、それはあまりに安易だから、もっと目立つ名前にしたかったんだよ。実際こうやって、メズロウとは何なのか、みんなに聞かれるし。つまり一種のマインドゲームになっているということさ(笑)。

 

ー 発音はメスロウ?

 

ウルフ:メスロウ、もしくはメズロウ。

 

ー 90年にはデビュー・アルバム『Then Came the Killing』をリリースします。

 

ウルフ:初期のデモを録ったところと同じ場所でレコーディングしたんだ。レコーディング自体はわりとシンプルなもので、プロデューサーをつけたかったのだけど、見つからなかった。だから、レコーディングのプロセス自体はデモと変わらなかったのだけど、ミックスはストックホルムのスタジオで、Mats Lindforsとやった。彼は当時有名なハードロックのプロデューサーだったんだ。イングヴェイのバンドでベースを弾いていたマルセル・ヤコブもスタジオにいた。キャンドルマスのレイフも一度来ていたな。キャンドルマスは『Tales of Creation』を、そのスタジオで録音したんだ。だから、ミキシングのプロセスはとても良いものだった。レコーディングが終わって、テープをイギリスに送り、89年の9月にはテストプレスも完了していたのだけど、レーベル(Active Records)が、Music for Nationsに吸収されることになってね。そのせいで、アルバムのリリースが8ヶ月遅れてしまった。その8ヶ月で俺たちは基盤を失ってしまったというか。1989年の時点では、まだデス・メタルの波は起こっていなかった。だけど1990年の春にアルバムがリリースされた時、それはデス・メタルの波に溺れてしまったんだ。残念ながらね。1990年は俺たちにとって良い年ではあったのだけれど。

 

ー エントゥームドがデビューしたのが1990年ですよね。

 

ウルフ:そう、その通り。

 

ー アルバムが予定通り1989年に出ていれば、状況もかなり違ったことでしょう。

 

ウルフ:間違いないよ。ストックホルムのシーンがデス・メタル一色になってしまった。エントゥームドがいて、ディスメンバーが台頭してきていて、他にもカーネイジとか。こういうバンドたちとは何度か一緒にライヴもやっていたんだ。エントゥームドとはフェスティヴァルで2度。スウェーデン国内では、俺たちはわりと人気があったんだ。注目も集めていて。だけど、だんだんと厳しい状況になっていった。そしてレコード・ディールを失い、バンドも行き詰まってしまった。何とかしようとしたけれど、どうしようもなかったんだ。91年の頃さ。

 

ー 91年は世界中のスラッシュ・メタル・バンドにとって厳しい時期でしたよね。

 

ウルフ:そう。

 

 

 

ー キャンドルマスのレイフはアルバムのミックスに参加したのでしょうか。

 

ウルフ:いや、彼は俺たちのレーベル・マネージャーと仲が良くてね。そのストックホルムのスタジオでミックスすることを提案してくれて、それでスタジオにも様子を見にきてくれたんだ。

 

ー アルバムには「カールソン」という名字のメンバーが3人いましたが、彼らはみな兄弟だったのでしょうか。

 

ウルフ:うち2人が兄弟だったんだ。

 

ー 解散をしたのはいつだったのでしょう。

 

ウルフ:今もメンバーのベース・プレイヤー、コニーが91年の初めに抜けて、俺がヴォーカルとベースを兼任するようになった。それで1年近くやっていたけれど、今度はリード・ギタリストが辞めて、別のメンバーが入って、それでも頑張っていたのだけどね。良いギグもあったし、91年に録ったデモも悪くなかったと思う。音質は悪いけれど、曲は良かった。バンド内にはスピリットも残っていた。だけど92年の終わりになると、何というのか、俺の中でバンドに対する情熱が失われて、ちょうどその頃Rosicrucianに誘われたんだ。Black Mark所属の。バソリーのレーベルさ。Rosicrucianに入ったのが93年の晩春だった。残ったメンバーたちは、メタリカのカバーをプレイしていて、やがて活動を止めた。だから、1993年に解散したと言える。

 

ー バソリーの名が出ましたが、クオーソンに会ったことはありますか。

 

ウルフ:ない。だけど若い頃、俺にとってバソリーは大きなインスピレーションだった。83年、84年頃。

『Scandinavian Metal Attack』というコンピレーションに2曲入っていて、あれはバソリーのベストなレコーディングだと思うよ。「Sacrifice」と「The Return of the Darkness and Evil」。本当に素晴らしい。

 

ー クオーソンやバソリーというのは、スウェーデンのメタル・ファンにとってどんな存在だったのですか。

 

ウルフ:彼はアンダーグラウンド的存在だったから、あまり多くの雑誌には出ていなかったな。とてもミステリアスな存在だったよ。初期の写真はサタンの息子みたいな感じだったし(笑)。15歳、16歳の頃だったから、とてもイカしていて、スウェーデンの中では突出した存在だと思っていた。84-85年の頃のスウェーデンは、ヘアメタルばっかりだったからね。バソリーは突出していて、とにかくイカしていたよ。俺はイエローゴート(訳註:バソリーの1stのファーストプレス)のレコードを持っていたんだ。ストックホルムで買ったやつ。数年前に売ってしまったけれど。

 

ー いくらで売れました?

 

ウルフ:600ドルくらいだったかな。

 

ー あれはスラッシュ史上最もレアなレコードの1つですからね。『Then Came the Killing』の時点でも、やはりインスパイアされていたのはエクソダスやテスタメントといったバンドだったのでしょうか。

 

ウルフ:その通り。アルバム収録曲は、3曲を除いてデモにも入っていたから、わりと古いものばかりだったんだ。アルバムを作っている頃は、少々気持ちが変わっていて、ヴァイオレンスやフォービドゥンのような、もっとテクニカルなバンドに惹かれるようになっていた。だけど、曲を書く時は、あまり曲構成については考えなくて、リフを書いて、ただそれをつなげて、これがスラッシュだという感じでやっていたよ。フルスピードでね。今はもっと曲作りに関して成熟しているけれど、当時はまだ20歳とかで、火がついたみたいだった。87年頃は、ベイエリア・シーンが有力だったからね。セカンド・ウェイヴのバンドが色々と出てきた。セカンド・ウェイヴの最初のバンドはレガシー。後にテスタメントになるバンド。それからデス・エンジェル、ヴァイオレンス、フォービドゥンなんかがいて。アルバムは出さなかったけれど、とても良かったのはMercenary。86年のデモは本当に良かったよ。彼らは後にモードレッドになるのだけど、Mercenaryとしてアルバムを出さなかったのはとても残念だよ。デモが本当に良かったから。サード・ウェイヴにはPotential Threat、The Horde of Torment、Epidemicなどがいたけれど、これらのバンドはセカンド・ウェイヴのバンドほど良くなかったな。ベイエリアのシーンは、80年代の終わり、少なくとも90年代初めにはクオリティを失っていたよ。それにテスタメントやエクソダスみたいなビッグなバンドも、メタリカのブラック・アルバムが出るとみんなスローダウンしたよね。みんなスピードを失ってしまった。俺たちは速い曲が好きだったから、その当時もまだスピードを追求していた。あの風潮は俺たちにとってキツかった。あの辺のバンドはみんなメジャー・レーベルと契約して。

 

ー どのバンドも普通のヘヴィメタルになってしまいましたよね。

 

ウルフ:そうなんだよ(笑)。

 

 

ー あなたのヴォーカルに関してはいかがでしょう。ロールモデルとしたヴォーカリストなどはいましたか。

 

ウルフ:もちろん。ずっと凄いと思ってきたのは、初期のジェイムズ・ヘットフィールド。『Ride the Lightning』から

『Master of Puppets』あたりの。初期のトム・アラヤも。チャック・ビリーも素晴らしいシンガーさ。それからあまり有名ではないけれど、イカしたトーンを持っていたのは、Sindromeのトロイ・ディクスラー。シカゴのバンドで、本当に良いヴォーカリストだった。とてもパワフルで、グロウルっぽいのだけれど、歌詞がすべて聞き取れるんだ。それは俺も目指していたもの。非常にパワフルだけど、歌っていることが聞き取れるということ。歌詞はとても大切だと思うからね。

 

ー Sindromeはアルバムこそリリースしませんでしたが、最高のバンドの1つでしたよね。

 

ウルフ:その通りさ。

 

ー メズロウはその後2005年に一度再結成を果たします。

 

ウルフ:とても短い期間だけれどね。ギグを一度だけやって、ビデオ撮影もしたんだ。ずっと借りていたリハーサル・スタジオを祝福するために、再結成してライブをやった。楽しかったけれど、イマイチしっくり来なくてね。それで一度きりになってしまった。とても楽しくて、悪くはなかったんだけれど。

 

ー 05年の再結成に至るまでは、何か音楽活動はしていたのですか。

 

ウルフ:さっきも言ったようにRosicrucianに加入して、95年に脱退した。それからコニーと、他のメズロウの古いメンバー2人とTingodというバンドを始めた。サウンドガーデンとメタリカのブラック・アルバムを混ぜたようなサウンドで、デモをいくつか作ったけれど、どうにもならなかった。その後はしばらく音楽から遠ざかっていたのだけど、弟がDisfearというバンドにいてね。とてもハードなバンドで人気がある。ヴォーカルはアット・ザ・ゲイツのトーマスで、エントゥームドのウッフェがギターで、俺の弟もギター。熟練したミュージシャンが集まったバンドなんだ。俺自身は音楽をやめていたけれど、弟を通じて音楽業界とはつながっている感じだった。ヘヴィメタル、ハードロックはずっと好きでいたけれど。

 

ー そして21年、ついにメズロウは再結成を果たす訳ですが、きっかけは何だったのですか。

 

ウルフ:なるべく簡潔に説明しよう。2011年に俺とコニー、そしてメズロウのギタリストだったスタッフェで、スラッシュの曲を書いたんだ。コニーはPC上にその曲をとっておいたのだけど、俺たちはすっかりその存在を忘れていた。残念ながら、2018年にスタッフェが結腸癌で亡くなってしまってね。それでその曲のことを思い出したんだ。彼のためにコニーと曲を仕上げて、『Then Came the Killing』を再発して、その曲も収録しようと考えたんだ。曲を仕上げるのに時間はかかったけれど、とても感触は良かった。自分のヴォーカルには懐疑的だったのだけれど、とても良くて自然に感じられたから、コニーに「もっと曲を書いてみてはどうだろう?」って提案したんだ。そしてRosicrucianにもいたギタリスト、マグナス、彼は今Nightrageでもギターを弾いているのだけれど、彼にも連絡をとってね。彼もすぐに参加をオーケーしてくれた。それで3人で曲を書き始めたら、とても良いものが出来てきた。つまりきっかけはスタッフェの死で、彼を讃えたかったということさ。そして曲を書いていって、21年の終わり頃には11曲出来上がっていた。もう一人のギタリスト、ロニーが加わって、彼はとにかく物凄い量のリフを書くんだ。彼のリフも加えて、11曲出来上がって、22年の頭からレコーディングを始めた。俺たちはみんなスウェーデンの違った街に住んでいるのだけれど、今はディジタル・ワールドだから。コラボレーションは難しくなかったよ。曲作りのプロセスは、昔みたいに本当に楽しかった。ミュージシャンとしても成熟したしね。不思議なことに、俺のヴォーカルも昔よりずっと良いものになったよ。俺がきちんと歌えなければ、バンドとしての成長はないから。俺次第という部分はあった。うまくやれて良かったよ。とても自然に感じられて。今日ちょうど話していたんだ。20歳の時にどう感じていたのかを思い出すのは簡単だったって。スラッシュや演奏についてね。俺はもう50歳を過ぎているけれど、20歳みたいに考えることができるんだ。イカしてるよね。

 

ー コニー以外のメンバーを見つけるのは、それほど難しくなかったということでしょうか。

 

ウルフ:そうだね、マグナスはスタッフェと書いた曲でギターソロを弾いてもらったから、その流れで彼に頼んだ。彼が入るのが自然な流れだったから。それからもう一人ギタリストが必要で、最初の頃はFredrik Folkareとやっていたんだ。Unleashedのギタリスト。だけど彼は忙しくて。それでロニーにコンタクトした。ロニーはこの業界ではプロデューサーやサウンド・エンジニアとして有名で、それが彼の仕事なのだけど、スラッシュ・メタルのギタリストでもある。とてもスムーズに進んだよ。初めて4人で会った時の感触も良かったし。ケミストリーが感じられた。

 

ー ニュー・アルバムの音楽性についてはいかがですか。特に『Then Came the Killing』と比較した場合。

 

ウルフ:まず演奏が良くなっていると思う。参加したミュージシャンたちは、みんな経験豊富だからね。

マインドセットも良かった。曲のアレンジも進化しているし、あらゆる点で良くなっていると思うよ。特に曲作りに関しては、『Then Came the Killing』でもなかなか良い曲を書いたと思うけれど、今はレベルが違う。それからサウンドも良くなっている。すべては年齢とつながっていると思う。年齢を重ねて、当時よりも音楽への造詣が深くなっているからね。他のメンバーが同意するかはわからないけれど、個人的には曲のタイトルももっとずっとイカしたものになっていると思うよ。80年代、90年代のもイカしていたと思うけれど、今回はさらに良くなっている。

 

ー 今回もインスピレーションは、やはりヴァイオレンスやフォービドゥンといったバンドでしょうか。

 

ウルフ:そうだね。基礎にあるのはベイエリアのスラッシュで、その上で自分たちのスタイルを作り上げていると思う。ベイエリアの音楽が聴こえるのは間違いないだろう。ベイエリアのスラッシュからは常にインスピレーションを受けてきたから。俺のお気に入りの音楽さ。

 

ー スラッシュ・メタル以外からのインスピレーションもありますか。

 

ウルフ:もちろん。俺やコニーは90年代に自分たちのルーツを探索するようになって、パープルやサバス、ツェッペリンなんかを聴くようになった。80年代の初めはNWOBHMを聴いて育ったのだけど、スラッシュが出てくると、それを忘れてしまっていた。だけど、80年代の終わり当時でも大好きだったのが、『Unleased in the East』。ジューダス・プリーストのね。あれは俺のバイブル。

 

ー H.P.ラヴクラフトを扱った歌詞が多いように見えますが、これはコンセプト・アルバムなのでしょうか。

 

ウルフ:いや、そうではないけれど、この質問は興味深いね。歌詞に関しては、H.P.ラヴクラフトは俺にとってとても大きなインスピレーション。彼はとても恐ろしい未知の世界を作り出した。他の次元だとか、海の深いところとか。人々が知り得ないことというのは、とてもインスピレーションを与えてくれる。誰も知らないこと。そんなものは存在しないとは言い切れないもの。おそらく存在はしないだろうけれど、完全には否定できない。そういうものに対する彼の描写の仕方、書き方がとてもインスピレーションを与えてくれるんだ。メタリカの「The Thing That Should Not Be」や「Call of Ktulu 」がラヴクラフトからインスピレーションを得ていることは、みんな知っているよね?俺たちはああいう曲を聞いて育って、

「The Thing That Should Not Be」の歌詞はとてもイカしていると思って、それでラヴクラフトを色々読んでみたんだ。とてもたくさんのイカしたインスピレーションが得られたよ。特に「ベニース・ザ・シー・オブ・サイレンス」は、とてもラヴクラフトらしい歌詞になっている。この曲は最初のシングルとしてリリースされるよ。タイトル・トラックもとてもラヴクラフトさ。すべての曲ではないにせよ、ラヴクラフトの痕跡を見つけられる曲は多いと思う。クライヴ・パーカーやディーン・クーンツも好き。彼らもラヴクラフトとほぼ同じジャンルの作家さ。

 

 

 

ー アートワークもモロにラヴクラフトですよね。

 

ウルフ:あの絵はPär Olofssonの手によるもので、エクソダスの『ペルソナ・ノン・グラータ』のジャケットも手がけている。エクソダスは俺たちのヒーローだからね。その絵を見て、彼にコンタクトしてみたんだ。しかもスウェーデン人だというし。ギャラは高かったけれど、頼んだ価値はあったよ。コンタクトをしてみたら、彼自身もラヴクラフトの大ファンでね。それで彼にラヴクラフトの引用を送って、それはタイトルトラックのインスピレーションになった部分なのだけど、それを元にカバーを描いてもらったんだ。すぐにインスピレーションを得られたようだ。その後、彼は次々とアイデアを送ってきてくれた。最終ヴァージョンになる前の作品がいっぱい手元にあるよ。あのアートワークには様々なパーツがあって、それぞれを取り出してもアートワークとして成立する。だから、シングルではそれらをカバーにしているんだ。上の左の方には月が出ていて、その周りに古の神の口から飛び出した悪魔の頭蓋骨がいる。それがファースト・シングルのカバーだよ。サード・シングルの「キング・オブ・インフィニット・ヴォイド」では、月から降りてくる悪魔がカバーになる。

 

 

ー 今後の予定はどうなっていますか。ライヴをやる予定はあるのでしょうか。

 

ウルフ:アルバムでドラムを叩いたジョンは、今Hulkoffというバンドでツアー中でね。サバトンのサポートとして。彼はとても近い存在ではあるのだけれど、セッション・ドラマーという感じなんだ。彼がライヴでも叩いてくれるのが一番なのだけど、一応他のドラマーにも声はかけている。メンバーが固まり次第、可能な限りのライヴをやりたい。俺たちはみんな家族がいて、仕事があるから、その間を縫ってね。アルバムを出して、主にフェスティヴァルを中心にプレイするのが、今の目標さ。

 

ー オールタイムのお気に入りのアルバムを3枚教えてください。

 

ウルフ:まずは『Unleashed in the East』。それからエクソダスの『Bonded by Blood』。もう一枚は難しいな。メタリカの『Master of Puppets』。あと10枚くらい挙げられるよ。最初に買ったのがKISSだったから、今でも初期のKISSの曲を聴くと興奮する。まあでも今挙げた3枚だね。

 

ー では最後に日本のファンへのメッセージをお願いします。

 

ウルフ:やあ日本のファンのみんな、メズロウが帰ってきた。一度スラッシャーになったら、生涯スラッシャーなのさ!

 

 

文 川嶋未来

 

 


 

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2023年4月21日発売

Mezzrow

『Summon Thy Demons』

CD

【CD収録曲】

  1. キング・オブ・ジ・インフィニット・ヴォイド
  2. スルー・ジ・アイズ・オブ・ジ・エインシェント・ゴッズ
  3. サモン・ザイ・デーモンズ
  4. ホワット・イズ・デッド・メイ・ネヴァー・ダイ
  5. ディ・ミステリース・インモートゥイ
  6. ベニース・ザ・シー・オブ・サイレンス
  7. オン・アース・アズ・イン・ヘル
  8. ブラックネス・フェル・アポン・ザ・ワールド
  9. ダーク・スピリット・ライジング
  10. ジ・エンド・オブ・エヴリシング

 

【メンバー】
ウルフ・ペッテルソン (ヴォーカル)
マグナス・セーデルマン (リードギター)
ロニー・ビョルンシュトローム (ギター)
コニー・ウェレン (ベース、バッキングヴォーカル)
ジョン・スカーレ (ドラムス)