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キング・ダイアモンド
独占インタビュー Vol.1

学校の卒業式でプレイするハメになったこともあった
完全に誤まったブッキングさ
みんなダンスしたがっているのに
私たちは初期のマーシフル・フェイトの曲を
プレイしたのだから

                                   

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文:川嶋未来 Photo by Axel Jusseit

 

ー コロナの状況はいかがですか。(2020年11月19日)

 

キング:良くないよ。どこにも行けないし。食料品の買い出しには行くのだけど、お店が車に商品を積み込んでくれるんだよ。だから、殆ど何にも触れず、家に帰って来てガレージにある冷蔵庫に食料品を3日間くらい入れてから部屋に持ち込むようにしているんだ。とても気をつけている。知らない人だけでなく、知っている人とも直接会って会話をしないようにしている。何があるかわからないからね。

 

― 今年の夏、ヨーロッパでマーシフル・フェイトを見る予定で、とても楽しみにしていたのですが。

 

キング:すべてのフェスティヴァルが来年へ延期になっているけれど、それもどうなるかまだわからないね。やれるように準備はしているけれど、安全も大切だから。たくさんの人がやって来て、結局多くの人が病気になってしまっては仕方がない。まあ、でも先に進んではいるよ。2日前、いや昨日だ、年に一度の健康診断だったんだ。血液検査などもやったのだけど、すべて正常だった。わからないけれど、まだ来年の夏にオープン・フェスティヴァルを開催するのは難しいかもしれない。保険会社の問題もある。コロナに関しては、保険をかけることができないだろうし。コロナに感染した人が出たら、プロモーターは大きな損失を被ることになるだろう。色々試行錯誤が必要だろうね。まあ、わからないけれど。突如事態が変わるかもしれないし。人々が十分に距離を保てば、ウィルスが次の宿主にジャンプできないだろうしね。それを実現するのも容易ではないだろうけれど。人によって優先順位は異なるし、生活もある。食料を調達したり、家賃も払わなくてはいけない。とても難しい状況だよ。こんなことは誰も経験したことがないからね。医者にとってもこのウィルスは未知のもの。良い方向に進むよう祈るしかない。私の主治医は2022年には通常の生活になるだろうと言っていたよ。2021年も、今よりずっと良くはなるだろうと。完全ではないにしても。

 

 

 

― ではインタビューを始めましょう。そもそもどのような経緯で音楽に興味を持ったのですか。音楽的な家族で育ったのでしょうか。

 

キング:どうだろう。両親は音楽好きではあったけれど、私の好きな音楽とは違うものだったよ。私がバンドでやっている音楽をわかってはくれたけれどね。もともと私は音楽が好きで、70年代にラジオでロウなギター・サウンドを聴いてね。「Communication Breakdown」だったかもしれない。それで「ギターをプレイしたい。ああいうサウンドを出したい」と思ったんだ。当時、小さなカセットテープ・プレイヤーを持っていてね。1973年に弟と両親とキャンプに行って、その年クイーンがファースト・アルバムをリリースして、ちょうどその頃アルバムを買うようになっていて。最初にアルバムを買ったのは1971年で、(ディープ・パープルの)『Fireball』やジェスロ・タルの『Aqualung』、ブラック・サバスの『Master of Reality』あたり。確か1週間後にもう一枚アルバムを買う余裕ができて、ウィッシュボーン・アッシュのファースト・アルバムを買った。当時すでにこういうスタイルの音楽が好きだったんだ。ブラック・サバスの最初の2枚なんかはすでにカセットでは持っていたけれど、その時に初めてターンテーブルとレコードを手に入れたんだ。で、キャンプに行った時に、ラジオで「新しいバンドを紹介します。クイーンです」と、「Keep Yourself Alive」がプレイされたんだよ。それで「これは凄い」って思ってね。早くキャンプから帰ってクイーンのレコードを買いに行きたくて。各国のレコードを取り揃えているお店に何度も電話をかけて、ついに入荷された。同じ年、クイーンがやって来るというアナウンスがあって、私もチケットを入手したのだけど、キャンセルになってしまった。チケットが100枚も売れなかったらしくて。まだファースト・アルバムの頃だったから、時期が早すぎたんだ。セカンドの時はデンマークには来ず、サードの『Sheer Heart Attack』では「Killer Queen」がヒットしたこともあり、3000席の会場がソールドアウトになったよ。行けるコンサートにはすべて行った。初めてのコンサートは1971年のグランド・ファンク・レイルロード。モット・ザ・フープルがサポートだった。本当にたくさんのコンサートに行ったよ。一人で行った最初のコンサートは16歳の時で、バスのお金がなかったから、片道3kmの道のりを歩いて行ったことを覚えている。

 

― あなたはギターとキーボードをプレイし、そして歌も歌いますが、最初にやったのはギターだったのですか。

 

キング:厳密に言うと、最初にプレイしたのは輪ゴムだった。テープレコーダーに色々と録音をしていてね。楽器なんて何も弾けなかったけれど、木の板に釘を打ち付けて、そこに輪ゴムをくくりつけて、それをビヨンビヨンとはじいて録音した。それからドラムみたいな音を足したり、酷いものだったけれど、それが初めてのレコーディングの経験だった。それからお金を貯めてギターを買った。だけど、ギターを弾いてみても、さっぱりジミー・ペイジやトニー・アイオミみたいなデカい音にならない。両親の知り合いだった親切なご近所さんが、アンプというものが必要なんだと教えてくれてね。ギターだけでは音が出ないなんて、当時の私は知りもしなかったんだ。彼がアンプとスピーカーを作るのを手伝ってくれた。というより、彼が作って、私は道具を持ったりしていただけだけど。赤いオン・オフのスイッチがあって、黒いディストーションのオン・オフのボタンがあって。まあ、それはずっとオンだったよ。クラスメートにドラムを買ってプレイしようとしているやつがいてね。それで確か1976年に、彼と一緒にブレインストームというバンドを始めて、数年やっていた。それから、ブラック・ローズというバンドに加入したのだけど、このバンドはメンバーが2人しかいなくてね。シンガーとキーボード・プレイヤーを探していて、あのバンドで私は初めてマッドマンのようにスクリームしたんだよ。どうやって歌っていいかわからなかったから。当時私はギタリストで、ブレインストームでもギターをプレイしていたから。オーディションに行くと、「俺たちはレインボーやディープ・パープルが好きなんだ」と言っていて、私もそのあたりはよく知っていたから、とりあえず「Space Truckin’」をやった(笑)。歌なんて歌ったことがなかったから、ただ高い声でスクリームしたよ。初めての経験だった。ギターとマーシャル・スタックも持っていたし、ギター/ヴォーカルとして加入したかったのだけど、すでにバンドは素晴らしいギタリストを見つけていたんだ。リッチー・ブラックモアみたいにプレイするギタリストだった。リハーサルを収録したCDは入手可能だよ。コンサートも何回かやった。とてもヴィジュアルなステージをやっていたものさ。色々なエフェクトを使ってね。

 

― 影響を受けたヴォーカリストは誰ですか。過去のインタビューでは、ユーライア・ヒープのデイヴィッド・バイロンの名を挙げていましたが。

 

キング:もちろん彼は私にとって究極のヴォーカリストさ。だけど、他にも様々な理由で好きなヴォーカリストはいる。オジーのトーンも好きだし、ロブ・ハルフォード、ロバート・プラントも好き。イアン・アンダーソンもまた違ったヴォーカリストだし。大好きな素晴らしいヴォーカリストはたくさんいるよ。影響を受けたという意味ではデイヴィッド・バイロン、というかユーライア・ヒープが一番だよ。ケン・ヘンズレーも歌うし、ギターも弾く。デイヴィッド・バイロンは様々なスタイルをこなすよね。高い声もやるし、フィーリングも素晴らしい。ミック・ボックスのコーラスも。デイヴィッド・バイロンの時代にデンマークで6回ライヴを見たけれど、ライヴでも本当に素晴らしかったよ。

 

― その後ブラッツに加入したのですよね。

 

キング:そう。デンマークに住んでいる今でもとても仲の良いケン・アンソニーという男がいて、ハンク・シャーマンが元々ケンと知り合いで、ケンはある日ブラック・ローズのライヴを見たんだ。ブラッツはすでにファースト・アルバムをリリースしていて、リード・シンガーを入れた方が良いなんて言われていた。ベーシストが歌もやっていたから。それでリード・ヴォーカリストを探していてね、ケンは私に加入してほしいということで彼と会ったんだ。彼らの住んでいたアパートで。ちょうどその頃ブラック・ローズが活動停止をして、というのも、バカみたいな話だけれど、キーボード・プレイヤーの奥さんが自分たちのアパートのキッチンを新しくしたいということで、そのためにキーボードを売ってしまったんだ。ある日彼はキーボードを持たずにリハーサルにやって来て、どうしたのかと尋ねると「もうキーボードはないんだ。どうしたらいいかな」なんていう調子でさ。本気でやるつもりはないんだなと思って(笑)。それで活動を停止した。バカバカしくて。それでケンと話して、ブラッツでやってみることにしたんだ。パンクではなく、ヘヴィなのをやるならという条件で。私はパンクはやりたくなかったから。当時すでにマーシフル・フェイトの曲のファースト・バージョンを書いていたし。ライヴをやったり、ドラマーはコロコロと変わって、ギタリストの一人も、私が加入した頃はすでにマイケル・デナーもいなくて、カルステン・フォルシングというやつがギターを弾いていた。一度デナーは戻って来て、でも結局また辞めてしまって。でもまた戻って来たりで、入ったり辞めたりを繰り返していたんだ(笑)。結局デナーはティミ・ハンセンとドラマーとでデンジャー・ゾーンというスリー・ピースのバンドを始めて、デナーはブラッツにいたハンクに、デモを録るからヘルプをやってくれと言ってきたんだ。リード・ヴォーカリストも出来れば連れて来て欲しいということで、私も参加したんだよ。当時すでにマーシフル・フェイトという名前もあってね。確かにブラッツがマーシフル・フェイトになる可能性はあったのだけど、CBSから「もし契約を保持したいのなら英語で歌わなくていいし、クレイジーでヘヴィで複雑な曲なんてやらなくていい」と言われてね。バンドの3人は、契約保持をしたがったけれど、私とハンクは「あり得ない」と拒否した。それで別々の道を行くことにして、私とハンクはヘヴィな音楽をやろうとマーシフル・フェイトを始めたんだ。実を言うと、マーシフル・フェイトというバンド名は、ケン・アンソニーのガールフレンドが考えたんだ。そして私たちでスペルを”merciful”から”mercyful”に変えた。

 

― マーシフル・フェイトというバンド名にはどのような意味が込められているのですか。

 

キング:文字通りの意味だよ。私たちの書いていた曲の多くは、もし自分がそのようなシチュエーションに陥ったら、「マーシフル・フェイト=慈悲深い運命」を望むようなものだから。恐ろしい結末を迎えそうなものばかりだから、希望的な観測をしたくなるということだよ。

 

― 先ほどのブラック・ローズのキーボーディストの話ですが、彼が使っていたのはMinimoogですよね。

 

キング:その通りだよ!彼はMinimoogと本物のハモンドB-3を持っていたんだ。

 

― それをキッチン改装のために売ってしまったのですか?

 

キング:そうなんだよ(笑)。まあ、バンドを始めたばかりだったからね。そんなにたくさんのライヴをやっていた訳でもなかったし、まだプロでもなかった。そこそこやっていて、ブッキング・エージェントが、というか本当にブッキング・エージェントなんていたのかはわからないのだけど、彼はそう言っていて、学校の卒業式でプレイするハメになったこともあった。完全に誤まったブッキングさ。みんなダンスしたがっているのに、私たちは初期のマーシフル・フェイトの曲をプレイしたのだから。誰も気に入るはずもなく、みんな「どうすればいいんだ?」という顔で私たちを見つめていたよ。ボサッと見ているだけの、ファンになるはずもない奴らの前でプレイしたのだからね。酷いブッキングにも程があるよ。DJがディスコをかけていて、そこにメイクをしたバンドが登場したのだから。子供たちには衝撃だっただろう。初期の頃にはそんなこともあったのさ。さらにキーボード売却事件なんかもあった訳だけど、ブラック・ローズ自体はとても強力なバンドだったんだよ。良い曲も書いたし、私が歌い始めたのもこのバンドだった。短い間にたくさんのことを学んだ。今、当時のリハーサルを聴き返してみると、とても興味深いし、結構クールだよ。

 

 

文 川嶋未来

 

 

Vol2.へ続く

– 次回マーシフル・フェイトの活動について語る –

 


2021年8月20日発売

 

■マーシフル・フェイト

 

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