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Oscar Dronjak

【METAL WEEKEND 2019出演アーティストが語る日本文化/全4回】第四弾はオスカー・ドロニャック!
『少年時代から日本は“ゼルダの国”であって、訪れることは夢だったんだ。』

                                   

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文:山崎智之 写真:Takumi Nakajima

“METAL WEEKEND 2019”2日目のヘッドライナーを務めたハンマーフォールのギタリスト、オスカー・ドロニャックのSNSでの自己紹介文には“MMA(総合格闘技)の大ファン、レトロ・ゲーム・コレクター”と書いてある。日本に来ると後楽園ホールでプロレスを観戦し、秋葉原でレトロゲームを漁るというオスカーに、その趣味人ぶりを激白してもらった。

 

 

ー 2015年のプロモーション来日時、「今日(10月9日)これから“W-1”プロレスを見に行くんだ。日本のプロレスは格闘技色が濃くて好き」と話していましたが、その日の興行はビッグダディと美奈子が場外乱闘をして、神奈月とスギちゃんが試合をするというものでした。期待した内容とは異なっていたのでは?

確かに予想とは異なっていたけど、決して失望することはなかったよ。あの日、初めて後楽園ホールに行ったんだ。日本のプロレスを見るのも初めてで、しかも“聖地”だから、それだけでエキサイトして胸がいっぱいだったよ。

 

ー で、今回の来日でもプロレス観戦をしたわけですが…。

昨日(9月14日)、ZERO1を見に行ったんだ。すごくハードヒットなプロレスを見せてくれた。俺が日本のプロレスに求めるのは、MMA(総合格闘技)のようなスポーツではなく、ガツンガツン痛みの伝わる試合なんだ。腕ひしぎ十字固めを1回かけたらそれで終わり、というよりも何度も堪えて、人間の限界を超えるようなね。あと、日本ではロックのライヴでもじっくり音楽を聴き込むファンが多いけど、シリアスに観戦に没頭していると思った。メインはセキモト(関本大介)とヒノ(火野裕士)のタイトルマッチで、みんな盛り上がっていたけど、声援を送るべきところは送りながら、ひとつひとつの技を味わっていた。俺はショルダータックルのぶつかり合いなどで我慢出来ず、大きな声を上げてしまったけどね。オオタニ(大谷晋二郎)を見ることが出来たのも嬉しかった。彼が新日本プロレスの若手レスラーだった頃からファンだったんだ。リングアナウンサーが彼の名前を“オータニ、シンジロー!”とコールしたとき、全身を電流が走ったよ。

 

ー 日本の文化に初めて触れたのはいつですか?

初めて日本に来たのは1999年1月だった。20年以上前のことで、まだほとんど日本のことも知らないし、人生のあらゆる局面で経験が浅かった。初めての大規模なツアーで、ヨーロッパを回ってから初めてアメリカに行って、その後に日本を訪れたんだ。すべてが初体験だった。この国で好きになったのは、常にお互いに敬意を払っていることだった。ゴミをそこいらに捨て散らかさず、家に持ち帰って捨てるという風習も素晴らしい。初来日のとき、当時のレコード会社の担当氏に料亭に連れていってもらったんだ。でも当時は和食や生の魚に慣れていなくて、ほとんどの料理を残してしまった。それで後になってお腹が空いたんでホテル近くのマクドナルドでハンバーガーを買ったら、ちょうど戻ってきたときに担当氏と出くわしてしまってね。俺たちが手にしているマクドナルドの紙袋を見て、悲しそうな表情をしていたよ。本当に申し訳ないことをしてしまった。でもその後、日本料理は大好きになったんだ。

 

 

 

ー ゲームにはいつ、どのようにしてハマったのですか?

子供の頃からゲームは好きだった。10歳のときに最初の『タートルブリッジ』のゲームウォッチを買ってもらって、それがすべてのきっかけとなったんだ。兄貴は『ドンキーコング』を買ってもらって、お互いに交換して遊んだよ。ファミコンは買ってもらえなかったから、就職してすぐにスーパーファミコンを買って、自由になるすべての金をレコードとゲームに投じるようになったんだ。1980年代、スーパーファミコンは自分の人生において“魔法の箱”だった。Nintendo Switchと共に、ゲーム機のオールタイム・フェイヴァリットだよ。今でもスーパーファミコン時代のゲームをSwitchでダウンロードして遊んだりする。『スーパーメトロイド』なんかは最近になって初めてプレイしたんだ。『ゼルダの伝説』が一番好きなゲームだったんで、シリーズのゲームはもちろん、関連グッズまで買うようになった。日本では大ヒットしたゲームソフトだし、グッズも決してプレミア価格ではなかったりするけど、スウェーデンは当時ゲーム市場の規模が大きくなかったから、スウェーデン仕様のソフトやグッズはすごくレアだったりするんだ。凄いマニアになると、『ゼルダの伝説』の各国仕様を集めたりする。俺の場合は、遊べないソフトをただ所有しているのも仕方ないし、秋葉原のスーパーポテト(レトロゲーム専門ショップ)に行って、見たことがないパッケージをちょびちょび買う程度だけどね。こないだ寄ったときは『時のオカリナ』の日本仕様ソフトを買ったよ。去年から我が家で飼っているアイルランドの救助犬にゼルダと名付けたし、ギター・ピックにもトライフォースの紋章を印刷している。ソニーのPlayStationやSEGAのいろんなハードがあったけど、俺が任天堂シンパだったのは、『ゼルダの伝説』シリーズがあったからだった。少年時代から日本は“ゼルダの国”であって、訪れることは夢だったんだ。

 

ー 『ゼルダの伝説』シリーズで最高傑作はどれでしょうか?

『神々のトライフォース』(1991)だな。過去2作は1980年代の、家庭用ゲームの初期だった。第3作になって、その世界観が確立されたし、グラフィックも向上したんだ。俺が最初にプレイした『ゼルダの伝説』シリーズのゲームだから、ヒイキ目もあるけどね!

 

ー あなたはゲームセンターに入り浸ったりしましたか?

あまりゲームセンターにはハマらなかったんだ。スウェーデンではゲームセンターがピンボール場を兼ねていて、あまり子供が出入りする雰囲気ではなかった。だから家庭用ゲーム機は神からのプレゼントだったよ。

 

ー 『ゼルダの伝説』を筆頭に、ゲームの世界観がハンマーフォールの世界観に影響を与えたりはしましたか?

北欧神話やJ.R.R.トールキンの『指輪物語』、アーサー王伝説やテンプル騎士団の物語は昔から好きだったし、ヘクターの伝説を創るインスピレーションの源になっている。『ゼルダの伝説』もそのひとつだろうけど、直接的な影響は受けていないよ。ヘクターが生まれたのは、偶然の要素もあったんだ。ファースト・アルバム『グローリー・トゥ・ザ・ブレイヴ』(1997)でアーティストのアンドレアス(マーシャル)に「“ハンマーフォール・ガイ”を描いてくれ」と依頼した。当時ヘクターという名前はなかったからね。彼が描いてくれた騎士は完璧だった。不思議なことに、そう言ったわけではないのに、鎧姿に日本のサムライ的な雰囲気があったんだよ。

 

ー ゲーム音楽がハンマーフォールの音楽に影響を与えることはありますか?

子供の頃から何百時間、何千時間とゲームをやってきたから、無意識的には影響を受けているかもね。18歳から24歳の頃は、とにかくゲーム廃人でロック廃人だった。でも「『ゼルダの伝説』のテーマ曲みたいな新曲を書くぞ!」とか考えて曲作りをしたことはない。もちろん『ゼルダの伝説』のテーマ曲は超名曲だけどね。今、うちの5歳になる息子が『マリオカート』に夢中なんだ。Switchでもプレイしているし、wiiでもやっている。父親として、子供がゲームに夢中になっているのは心配になるけど、自分の人生を振り返ると、血は争えないよ(苦笑)。

 

 

文:山崎智之

写真:Takumi Nakajima